Muß es sein? Es muß sein!

Muß es sein? Es muß sein!

2月5日 明日館プログラム曲目解説より。

ベートーヴェン(1770〜1827) : 弦楽四重奏曲 第16番 ヘ長調 作品135 

約15年ぶりに弦楽四重奏曲の創作にとりかかった56才のベートーヴェンだが、思いのほか興に乗り、次々に前人未到の純粋な音楽世界を紡ぎだしていった。その創作の波もこの第16番で終わりとなる。数ヶ月後に彼は内臓疾患により死を迎えるのだ。

この曲には「最後の弦楽四重奏曲」という特別な位置である上、最終楽章に「苦労して手に入れた決心」という意味深長な表題が付き、その上「そうでなければならぬか? — そうでなければならぬ!」という問答がいかにも謎めいて手書き原稿楽譜に書き込まれ、晩年の楽聖の暗く深遠な心の内と苦悩を思わせる材料に満ちている。しかしそんな特別な予感とは裏腹に、この曲はなぜか陽気さやのどかさにあふれている。私たちが期待する深遠にして哲学的な作品ではない。この事実は今まで多くの愛好家たちを失望させ、困惑させてきた。さすがのベートーヴェンも力尽きるのだと。私も半信半疑ながらそう思ってきた。

ところがである。最近、「後期」の境地への移行期にあたるソナタを勉強し、それまでの緊密に書き込まれた大曲の数々と一転したある種独特の「透き間」に魅せられた。その透き間は新しい次元への入り口で、見えない手掛かりをたぐると、不思議な世界の存在が見えてくるのを実感した。そして今、弦楽四重奏曲にとりかかってみると、共通の「透き間」が感じられるのだ。巨匠がもし生きていたら、書かれたであろうもう一歩先の音楽。「後期の後期」とでも言うべき次の空間が予感されるのだ。

この曲の背景を探ってみよう。ベートーヴェンはこの曲を作曲し終えたら、第10交響曲を創り、大家にふさわしい悠々とした創作人生をおくるつもりでいた。最終楽章の「そうでなければならぬ」のテーマも、演奏会のチケットを支払わなかった金持ちを揶揄して創ったカノンからとったもので、深刻なところから端を発したものではない。戯れに創った断片にベートーヴェンは発展の可能性を見いだし、その出自の滑稽さに可笑しみを覚えつつ取りあげたに違いない。また「苦労して手に入れた決心」に関しても、楽譜出版社への期日が迫り、原稿料を必要としていたベートーヴェンが、いつもの凝りに凝った創作を断念した無念さを率直に書きつけたのではないかという解釈が、彼の書簡集から推察されているが、それは霊感が尽き筆も進まなかったからではなく、新しい霊感予兆とじっくり取り組みたかったからではないだろうか。

第1楽章は未来的とも言える。細胞分割されたモティーフが、曲が進むにつれだんだん結合し、メロディーが形成されてくるという逆行の音楽。同時にこれまでのソナタ形式の常識を、新たな視点で打ち破る実験音楽でもある。第2楽章はスケルツォ。各声部の複雑なリズムが、絡みあいながら転調をくり返し突然第1ヴァイオリンがものすごい跳躍で踊り狂い、他の3声部も狂ったように50回同じ音型を繰りかえすという爆発を見せる。次の第3楽章は、当初の構想では存在していなかった。短かすぎるという出版社からのクレームで後から付け足されたというこの楽章を、ベートーヴェンは自ら「甘美な安らぎの歌、平穏な歌」と表現した。崇高でひんやりした世界にまで私達を連れていってくれるこの素晴らしい楽章は、曲全体を豊かでふくらみのある作品に変えるほどの出来栄えとなった。そして元の快活な気分に戻る第4楽章。「そうであらねばならぬか?」と問いかける導入部から「そうだ、そうだ!」と一転、ドイツ人独特のはしゃいだ悪乗りの音楽が展開される。この曲から限界に悩む姿は見受けられない。

私はこの曲から衰えた巨匠の残光ではなく、未知への可能性を受けとり、ベートーヴェンの超人的な創造力を信じ、書かれなかった素晴らしい音楽の存在を胸いっぱい想像したい。