無伴奏ヴァイオリン 〜パルティータ編〜

バッハ無伴奏ソナタ & パルティータ    

ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685-1750)は200年にわたって50人以上の音楽家を輩出したバッハ家の頂点に立つ、またクラシック音楽界の頂点に立つ大作曲家である。彼が65年間の生涯で残した作品は1000曲以上、そのいずれもが傑作である。教会付き音楽家として様々な教会に奉職し、生活の糧を得ていたことからオルガン曲やカンタータ等の宗教曲を数多く作曲した。その中で32才から38才までケーテンの宮廷楽長をつとめ、教会のためでなく音楽愛好家の領主のために作曲をしていた時代がある。「無伴奏ヴァイオリンソナタ&バルティータ」をはじめ「ブランデンブルク協奏曲」「二声、三声のインヴェンション」「平均率クラヴィーア」等の器楽曲がこの時期の作品である。

ソナタ3曲とバルティータ3曲、計6曲で構成された無伴奏ヴァイオリンのためのこの連作は、すべてのヴァイオリニストにとってバイブルともいえる存在で、演奏人生に何度となく戻ってひも解く核である。だが一曲一曲多くの楽章に分かれ、必ずいくつか難曲が配置されているために、一曲丸ごと、ましては六曲全部理解するには、かなりの意思力と時間を要する。

ソナタもパルティータもそれぞれ素晴らしい完成度で濃淡があり個性的である。

ソナタ3曲はすべて同じ組立ての4楽章構成。第一楽章の前奏曲に導かれる第二楽章のフーガが曲の中心となっている。第三楽章は間奏曲、快速の第四楽章がプロローグとなる。

パルティータの方は多楽章の組曲で、有名な「シャコンヌ」がクライマックスとなる。不変のソナタとは対照的に、パルティータは3曲それぞれ自由な楽章構成で独自の世界を描いている。

ソナタとパルティータは交互に配置されている。

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バッハの無伴奏パルティータ

無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ全三曲は、バッハの無伴奏ヴァイオリン曲全六曲のうちの半分にすぎない。三曲のパルティータと三曲のソナタで全六曲となる。
パルティータとソナタは交互に配置されて、まるでいくつもの国宝級の建造物が並ぶ大寺院のようなスケールの音楽である。
パルティータは舞曲による多楽章構成で、不動の4楽章構成であるソナタとは、異なる世界を展開する。
骨太の柱のようなソナタに対し、パルティータは自由に飛翔する大気。その上バッハは、ソナタは頑なに同じパターンで作曲したのに、パルティータは三曲全く違う形式で作曲している。

ロ短調の4つの舞曲を、2つのスタイルで描いて見せたような、アヴァンギャルドな第一番。
ヴァイオリンに最も演奏の可能性が広がるニ短調で書かれ、この全6曲の作品のクライマックスの「シャコンヌ」をメインに、圧倒的なスケールで繰り広げる第二番。
光り輝くようなホ長調で書かれた、天国的な第三番。パルティータとしては、この曲が最もオーソドックスな造りである。

◇ J.S.バッハ:パルティータ 第1番 BWV1002

バッハ「無伴奏全六曲」を通じてもっとも演奏されることが稀な一曲。4つの舞曲を骨格とし、それぞれの舞曲にドゥーブルと名付けられた変奏がつくという、例を見ない実験音楽ともとれる構成である。

長年、この曲は私にとって真剣に取り組んでも、どこか理解不能な存在だった。今回もロ短調という割りきれない少しごつごつとしたような響きや、舞曲のステップをキーワードにして解明しようとしてみたが、有効ではあったが決定打ではなかった。最近、ピアノの為に書かれた「パルティータ」に着目し、その多声音楽が第一楽章アルマンドと共通しているのに気がついた。バッハは壮大な計画でパルティータを書きはじめたが、思わず単旋律楽器ヴァイオリンには過酷な多声音楽を書いてしまったのではないだろうか。それで、その内容をそのままにハーモニーを単旋律にばらしてドゥーブルを作ったのではないか、そしてそれを4楽章全てに貫いたのではないだろうか。このアプローチであれば、この八分音符や十六分音符の羅列から、立体を掘り出すことは可能だ。

今年は何度も鍵盤楽器であるピアノで弾いてみて、この舞曲はヴァイオリンで弾くより鍵盤楽器で弾く方がずっと自然にたやすく弾けるのを実感した。反面、ドゥーブルの方はヴァイオリンで弾く方が弾きやすい音楽で、その差は歴然としている。それでドゥーブルは、純音楽というよりヴァイオリン音楽というスタイルでの演奏を意識することにした。

それでも基本型の舞曲ははっきりと表現しなくてはならないので、舞曲を頭で再現しながら身体はドゥーブルを弾く、という練習をした。これはできるようになるまで、かなりかかった。

今回、各舞曲とドゥーブルのコントラストがより明快になっているよう願っている。

劇的な第一楽章アルマンド、単調とも言える動きで深層部へ入っていく第二楽章クーラント、ロマンティックな第三楽章サラバンド、個性的な第四楽章ブーレ。バッハは最終楽章を書くにあたって、通例のジーグでは最初からヴァイオリン音楽に近すぎる、と思ったのであろう。古典的なソナタの構成であるブーレを配置した。

より抽象化され単旋律となったそれぞれのドゥーブルが、音空間を現在進行形で拡げてゆく。

◇ J.S.バッハ:パルティータ 第2番 BWV1004

この曲最終曲のクライマックスにあの有名な「シャコンヌ」がくる。「無伴奏全六曲」の中心で、キリストの受難が人類の救済へと向かうかのような、ターニングポイントでもあるこの曲は、ヴァイオリン一本で表現しうる音楽としての最高峰であろう。

まず第一楽章からアルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグと王道の4つの舞曲でこのパルティータは起承転結し、充分な内容を語る。それから長大な第五楽章シャコンヌがやってくる。シャコンヌのテーマに続く30の変奏。それまでの四舞曲をのみこみ、うねり、ふりまわし、私たちを希望も運命も永遠をも予感させる次元に連れて行く。ニ短調は、ヴァイオリンの能力を余すことなく表現できる調性でもある。この曲の後半、ついに短調で貫かれてきた無伴奏曲は、長調に転じる。この曲を前にして、私達は音楽の創造性に畏敬の念を抱かずにはいられない。

全6曲中、最もロマンティックで人間的なこの曲は、「キリストの受難」を表現しているかもしれない。

◇ J.S.バッハ:パルティータ 第3番 BWV1006

劇的なシャコンヌの後は、限りなく明るいホ長調が訪れる。

バッハには「イタリア風」といわれる喜びと明るさに満ちたトーンの曲があり、どの曲も人気がある。私はあるとき、バッハのオルガン曲のコンサートで接した「イタリア風」の曲を聴いて、はっとした。その瞬間、この第3番の色彩が、明確になった気がした。

パルティータ第1番と対極にあるようなこの第3番は、明快で少し硬質な透明感のある響きが全曲を支配する。宗教的な受難や原罪や贖罪を音楽で体感してきたあとに、こんな天国のような音楽が用意されていたのだ。だが「天国」なんていったいどうやって表現できるのだろう。

すると先日、ウィーンのピアノの老大家、J.デームスのレッスンの通訳をしていたところ、突然デームスが「このバッハ。天国には誰が住んでいると思うか?ハダカの大人になる前の、あの少しおバカな天使たちなんだぞ。」と言うのに遭遇した。実は私は、あの赤ちゃんの天使たちをそんなに好きではない。まるまるとした彼らは、ちょっと傲慢そうで無垢とはほど遠く、白人至上主義を思わせるからだ。だがバッハの活躍したバロック期のイタリアやウィーンの絵画や建築には、そんな天使たちが登場している。あまり嬉しくはないが、バッハがそんな天国を思い描いていたとしても、不思議はない。

光の万華鏡のような前奏曲に続き、優雅で孤独なルーレ、愛らしい有名なガヴォット、民謡風メヌエット二つと完成度の高い舞曲が天国的な世界を繰り広げる。そしてここからプロローグとなり、少しづつ夢から覚めて現実に戻ってくるブーレ、語り尽くした後の後奏のようなジーグで終わる。不純物のない結晶体のような調和に満ちたこのパルティータで、私たちは上へ上へと運ばれ、浄化されてゆく。